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巨刺と互刺、その他
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風邪は鍼で治るか?
ニコス堂ラビリンス
 
 
    
 
 
 

 


< 立之、抽齋墓参の記 >

 

毎月第一日曜に行なうはずだった「古医書訓読会」はコロナのために、課題を郵送してもらい添削して返送する形になっています。古典医書を読むには誰かの注釈に頼るしかないので、森立之の「素問攷注」と澁江抽齋の「霊枢講義」を参考にしています。
これだけ世話になっているのだから、今年は森立之と澁江抽齋の墓参りをしようと、会員と約束していました。しかし、コロナのためにボツ。そうこうしているうちに私が「枳竹鍼房」を開設したりなどしてしまい、これはもう一言ご挨拶に行くしかなくなりました。
抽齋の墓は谷中の感應寺に、森立之の墓は池袋の洞雲寺にあります。抽齋は54歳、当時日本中で猖蹶をきわめたコレラで命を落しましたが、立之は79歳、明治18年まで長生きしました。抽齋が死ぬまで二人は肝胆相照らす親友でした。まあこれは学問のうえだけで、生活上では立之が抽齋に一方的に迷惑をかけつづけ、一方的に扶助されたのですが。
抽齋の墓は昭和44年に子孫があたらしく立て直したものでした。手桶にはこれも子孫である杵屋の名が入っています。隣には海保漁村が文字を選んだ巨きな碑があります。巨大な石碑ですから、非常な長文です。写真を入念に撮ってきました。これから辞書をひきながら読むのが楽しみという、もう立派な墓マイラーです。
立之の墓にも新しい発見がありました。墓石の裏に銘文が彫ってあり、これは立之が生前に書いた文字です。その一部だけ彫ってあると思っていましたが、墓石の左右面にも彫ってありました。これは新発見でしたが、それでも生前に立之が書いたものの全文ではありません。もう一度、入念に写真を撮ろうと思いましたが、苔が蒸していたり背後の植木がはびこっていたりで、無理でした。やはり墓は、常々手入れしなければならないもののようです。
帰宅して少々疲れを感じたと思ったら、口の中に口内炎ができていました。数日たつても治りません。どちらかに怒られたのかと思います。抽齋先生はこんなことで人を怒ったりする人ではないので、おそらく森先生でしょう。もっと頻繁に参りに来い、ということなのだと思います。
しかし森先生以外にも、鷗外先生、狩谷棭斎、松崎慊堂など、訪ねたい色んな先生が現われました。本当に、もう立派な墓マイラーです。


 

 

森立之の墓


澁江抽齋の墓

 
杵屋正勝手桶